【古代ローマ】サートゥルナーリア祭/農神祭

このページではサートゥルナーリア祭について解説します。

サートゥルナーリア祭とは?

古代ローマで行われた、神話に登場する農耕の神サトゥルヌスの祭り(農神祭とも言われる)。ユリウス暦で12月17日から24日までの7日間開かれました。

主人と奴隷の立場を、表面上入れ替えるのが特長。主人が奴隷に給仕したり、奴隷が主人と一緒にお酒を飲んで酔っ払ったりすることが許されました。

奴隷制社会のローマにおいて、奴隷のガス抜きの意味合いがあったとされます。古代ローマで奴隷の反乱といえば剣奴スパルタクスの乱(紀元前73年)が有名です。

ギリシアの都市国家アテネやスパルタにも奴隷制はありましたが、ローマに比べれば規模は小さい。奴隷制はあるものの、それ以外の人達との間では表面上とはいえ「平等」を大事にしたのがギリシア世界。

いっぽうローマは奴隷制を含めて、身分に厳しい社会でした。ゆえに、ガス抜き以外に「身分の違い」を意識させること、秩序の維持が目的にあった可能性もあります。

ポエニ戦争がきっかけ

第2回ポエニ戦争中(紀元前218~前201年)、カルタゴに大敗したローマは、士気を高めるために宴を催したのが始まり。

世界史の教科書では、カルタゴのハンニバル、ローマのスキピオが登場します。カルタゴノヴァ(カルタゴではない)からローマ本土に侵入されたカンネーの戦い(前216年)で、ローマは大敗。しかし、前202年にザマの戦いでカルタゴに勝利して、西地中海を制覇しました。

これ以降、ラティフンディア(奴隷制大農場)が広がります。富裕層が征服活動で手にした公有地を私有化して、大量の奴隷を酷使して果樹栽培(ブドウやオリーブなど)を行います。

パクス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれる2世紀の五賢帝時代。戦線の維持が難しくなり、トラヤヌス帝を最後に拡張政策を中止、領土内の平和維持と内政安定に務めることに。戦争捕虜奴隷の数が減り、大農園を維持するためのマンパワーが不足します。

3世紀になるとラティフンディアは衰退、コロヌス(小作人)を用いたコロナトゥスに移行しました。。

 

サートゥルナーリア祭はクリスマス、カーニバルの起源とも言われています。

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